LOG IN

見ているようで全然見ていない

by SAKI.S

こんばんは、沙妃です。土日のブログ更新をさぼってしまった&昨日は小説を更新したので久々のエッセイ。毎日書こうと思うと、数日空いているだけでなんだか書くことへのエネルギー値が上がってしまう。運動と全く一緒ですね。

そう考えるとやっぱり、何かしら毎日書くということは書くことへのハードルをぐっと下げてくれる。ブログも料理もダイエットも運動も早寝早起きも、毎日続けるのがコツのようです。こつこつ。

さて今日は、具体例の話をしたいと思います。私はエッセイめいたものだけじゃなく、noteに小説を書いています。小説は気が向いたときにふらっと書くかんじで完全なる趣味なのですが、それはというと小説をむしょうに書きたくなるときがあるからなんですね。

note

どうして小説がむしょうに書きたくなるのか?それは、物語のレイヤーでしか語れないことがあるからなのかなあ、と思っています。エッセイだとうまく書けないもの、書きたくないものが、小説という形にするとすらすら出てくることがある。

また、物語の形にして初めて自分のなかにあったものが整理というか、昇華されるときがあります。だから物語を書くということは、私にとって癒しなんです。

でもいざ小説を書き始めると、毎回壁にぶつかります。それは中世ヨーロッパの街の砦ほど高くはないけれど、ハードル競走のあのハードルよりは高い(ところでハードル競走って誰が発明したんだろう)。

その壁とは、「具体的なものの形や部屋の様子や顔の形を描くこと」なんです。

確か村上春樹氏がどこかで言っていたような気がするんですが、小説家に必要なのはなるべく具体的に描くことだと。その意味が、いざ自分で物語を書くとひしひしと染みてきます。

なんだろう、ありありとしたイメージは細くて具体的な描写からしかわき起こってこないんですね。

で、なんで私が具体的に書けないかというと、観察眼がないからです。

電車を待つ時間、駅から目的地まで歩く時間、電車に乗っている時間、カフェで紅茶を飲んでいる時間。
まわりを見渡すことのできる時間は1日の中でたくさんあるはずですが、そのほとんどの時間を私は脳内で繰り広げられる考え事(または起こっていないことの想像・妄想)か、スマホのちっちゃい画面か、紙の上の文字か、目を閉じることにあてているんです。つまり、まわりを見ていない。

「今すれ違った人かっこよかったね〜」と隣を歩く友達に言われても「え、どの人?」と振り返ったときにはその人の顔を見れず、ということが毎回起こる。私が周りの観察眼に優れているのは、海外に行ってスリなどの危険性があるときだけです。

ポール・オースターの『ムーン・パレス』という小説において、目の見えない老人の世話をする主人公が、彼に散歩中「今見てみるものを全ておしえろ」と言われます。
主人公は一つ一つ言っていくのですが、そんなんじゃわからんと老人に怒られ、自分がいかに「見ているようで見ていなかったか」ということに気づく。そんなシーンがあるのですが、これを読んでいた私はけっこう胸が痛かったです。うん、私も見ていない、見ていないわ...と。

ムーン・パレスについて書いた記事:人文学っておもしろい?

「例えば?」って聞かれて適切な具体例を挙げることの難しさ。優れた小説は読み手にありありとそのシーンを想起させますが、優れた話し手も相手に、自分が持っているイメージを伝えるのがうまい。見たもの、聞いたもの、味わったものを言葉に落とす。その作業って、けっこうめんどうくさいんですよね。

でもその作業を怠っていると伝えたいことが伝えられないことがあるので、見たものを言葉にしていくっていう作業を始めたいと思います。「なんか上手く書いたこと・話したことが伝わらないなあ...」という方は、一緒にやってみませんか。

それでは、また。



SAKI.S
OTHER SNAPS