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言葉が先か、私が先か。鶏と卵の関係性について

by SAKI.S

というタイトルをつけたまま、はや1ヶ月半が経とうとしている。

さて私は、何を書きたかったんだろう。

こんばんは、沙妃です。明日は3月だというのに雨か雪の予報らしい。出勤日じゃなくて本当によかった。

寒くなる日の前夜はなんだか冬ごもりをしたくなり、家のなかにいるのがすごく幸せなことのように思えてくる。

寒くなる今夜〜早朝に備えて、この間買ったカーテンを(やっと)取り付けた。

淡いグリーンのカーテン。窓が曇りガラス?だから必要ないかなあと思っていたけれど、つけたら部屋がぱっと明るくなり、同時にあったかい気分(実際にあったかくなっているのかもしれない)になった。

色って大事だ(これ、前にも言った気がする)。

さて、冒頭に戻ろう。私はなにを書こうとしていたんだっけ。

言葉が先か、私が先か。そうだ、考えた末に出てきた言葉じゃなくて、ふっと浮かんだ言葉だった。だからそれについて、書きながら考えようと思ったんだった。

考えがあるから書くんじゃなくて、考えのしっぽをつかむために、書く。そういえば小説も、言いたいことを言うために書くんじゃなくて、小説というかたちでしか表せないなにかを表すために、そこから出てくるなにかを見つけるために、書くんだった。

普段私たちは「私」を意識しながら生きている。「私」を基準として、家族とどうでもいい話をしたり、恋人と手を繋いだり、友達と笑いころげたり、上司や同僚と汗水たらして働いたりしている。

だからかな、「私」がいてはじめて、「言葉」が発せられているような気がする。「私」がいないと、言葉も存在しない。それを紡ぐ人が、いないのだから。

でも、とふと考える。私の大学受験は小論文に始まり小論文に終わったんだけれど、まず最初の講義でやったのが「言葉があってはじめて私という認識が可能になる」ということだった。

ん、どういうこと?えっとね、言葉はそもそもAとBを区別するためにある。犬とおおかみ、という言葉があってはじめてこの二つの生き物は分けて考えられている。

言葉はそれ単体で存在しているのではなくて、必ず他の言葉との関連のなかで、体系的に存在しているのだ。

だから言語が異なると認識も異なる。例えば...といってぱっと適切な例が浮かばないんだけれど、日本語だと「水」と「お湯」は別物として扱われている。でも英語だとどちらも「water」。お湯は「hot water」でしかないのだ。

「私」というのも実際は、「あなた」とか「彼」とか「お母さん」とか「おまえ」がいてはじめてクリアになってくる言葉である。他者がいないと、私は「私」という認識すらできない。

言葉を覚える前の赤ちゃんは、だから世界が混沌として見えるらしい。

一体どんなふうに見えているんだろう。世界と私は切り離されてなくて、包まれているかんじなんだろうか。それとも何もかもが曖昧で、わけがわからないかんじなんだろうか。

将来VRが発達したら私は真っ先に「赤ちゃんから見た世界」を体験したい。

そういえば聖書は「はじめに言葉があった」から始まる。「私」がいて初めて発せられるように感じる言葉も、実は「私」より先行するものだったんだろうか。

言葉が全て、だとは思わない。でもこの世界の認識が言葉によって支えられているのなら、何気なく使っていた言葉すら、ていねいに扱いたいな、なんて思う。

ていねいな言葉を紡いでいたら、その分世界は美しく見える気がする。

そうか、だから私は言葉遣いが乱暴な人がことさら苦手、というより嫌悪感を抱いてしまうのかもしれない。私をかたちづくっている言葉、あなたをかたちづくっている言葉。

身体に入れるものには必死で気をつかうのに、世界を構成している自分の言葉には気を配らないなんて、なんだか不思議だ。

きっと死ぬまで、私は言葉と戯れて生きていくんだろう。でも美しい言葉に囲まれて世界が美しく見えてこの世を去れるなら、それもまた、本望かもしれない、なんてね。

それでは、今宵もおやすみなさい。



SAKI.S
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