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多様性はまず、自分のなかに認めるもの

by SAKI.S

台湾で同性婚が合法になると聞く。というより、現状の憲法が違憲、らしい。すごいな台湾、日本で同性婚が認められるのはいつのことなんだろうか。なぜ認められていないのか、よく考えるとわからなくなってくる。

私が今まで見たなかで性の多様性が社会に浸透しているなあと感じたのは、スウェーデンのストックホルムだ。

ゲイカップルはふつうに街中で腕を組みキスをしていたし、誰もそれに注目することはなかった。

トイレは男女別ではなく、共用だった。

初日はいささか驚いた(特にトイレ)んだけれど、慣れればどうってことない。2日目からは、すぐに慣れてしまう。

多様性、ダイバーシティ。みんなが認めよう、と言っているのに、なかなか浸透しない、あれ。

働き方、性、家族、国籍...身近であればあるほど、「当たり前でしょ」と思っているところで思考停止していて、なかなか多様性は認められない。

会社に勤めるのが当たり前、男女で恋愛するのが当たり前、結婚するのがふつう、子供がほしいのが当たり前、マイホームが”夢”なのが当たり前、”日本人””フランス人””アメリカ人”というくくりが当たり前...。

私たちはふだん、たくさんの”当たり前”に囲まれている。息を吸うのを意識しないのと同じくらい、これらの”当たり前”を吸いながらも、意識しないで、生活している。

”当たり前”は意識していないとなんともないのに、意識化された瞬間、私たちをひどく苦しめるものへと一変する。あれ、酸素を吸っていたはずなのに、酸素じゃなかった、みたいな(違うか?)。

”当たり前”を意識化するのは、「それは当たり前じゃないかもしれない」と気づくときだからだ。
”当たり前”のことができないと知ったときだからだ。

私は子供のころと10代をほぼ海外で暮らし、なおかつ転々としていたから、自分の”当たり前”がそうじゃない、と、目の前でがらがらと崩れていくことがよくあった。

大きいことじゃない、小さいこと。学校にビーサンを履いてくるとか、口約束だと約束にならないとか、自分から言わないと何も状況が変わらない、とか。

今じゃもう、思い出せないような、小さいこと。

それでも、私は今まで”当たり前”だと思っていたことが崩れていくのが、いやだった。”当たり前”が崩れてしまえば、”自分”も音を立てて崩れていく。”当たり前”に依拠して暮らしていた自分、そこを拠り所としていた自分が、崩れるのが怖かった。

変化するのが怖かったし、常に外国人というマイノリティとしての意識がずっとあったからこそ、”自分”や”日本人”というアイデンティティに固執していたのだ。

”当たり前”が”当たり前”じゃなくなっていく恐怖は、まわりへと矛先をむけた。「そんなのおかしい」「変だよ」...そう思って、まわりを拒絶した。そのころは、自分が変わることへの恐怖から、まわりを拒絶しているなんて思っていなかった。

そんな頑なだった自分なのに、気づいたら、いや気づかないうちに、変わっていた。変わったあとの自分は、何を恐れていたんだろう、というくらい、あっけなく訪れた。

新しい価値観を受け入れたら自分が自分でなくなっちゃうと思っていたけれど、そんなこと、全然なかった。新しい価値観も、それに馴染む自分も受け入れたら、毎日は楽しくなった。今でもよく覚えている。

”当たり前”は全然当たり前じゃない。そんなの、自分がいるちっぽけな世界でしか、通じない。

「変だよ」と拒むのは、新しい価値観を受け入れた自分が、変わるのが怖いから。自分が自分じゃなくなるのが怖いから。

自分というものを、軸や筋のとおった、固定されたものだと思うから、そうなってしまう。アイデンティティにこだわっていた自分はくそくらえだったし、変わっていく自分が許せなかった、怖かった。

多様性は、他者のなかで認める前に、まず自分自身のなかに認めないといけない。

多様性はまず、自分自身の内側にあるものだ。

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多様性についてはぐるぐる考えているので、次回に続きます。次回は、「そうは言っても、なんでもかんでも許容できないよ」というジレンマについて。多様性については答えは出ていないけれど、書くことで新しいなにかを一つ掴めるといい、と思いながら綴っています。

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それでは、また。

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