LOG IN

弔いとしての語り

by SAKI.S

池澤夏樹編成の日本文学全集(あの、パステルカラーで思わず全巻揃えたくなるやつ)のなかに古事記が入っていて、つらつら読んでいる。

もう何がなんだかわからないくらいたくさんの神様が出てくるため、なかなか前に進まないのだけれど、フライングをして解説を読んでいたら、こんな一文があった。

いわく、古事記は敗れた出雲の神々を書いた、滅びの文学だと。

滅びの文学といえば平家物語がそうだ。私は古事記にも平家物語にも詳しくないためあまり語れないのだが、ふと内田樹氏がどこかに書いていた「弔う」ということを思い出す。

語りというのは古くは、巫女など神職に就く者による神のお告げだった、というイメージが私のなかにある。

えーっと何が言いたいのかというと、今はあまりそうでもないかもしれないけれど、もともと語りというのは、「ここにいない者」「あちら側の者」たちの言葉を、「こちら側」にいる人たちに向けて伝えるという行為なんじゃないかと思ったのだ。

だからたぶん、そういった語るという行為においては、「自分を示す」という意味合いはない。弔いとしての語りやお告げとしての語りにおいて、語る話者、自分は「媒介」というメディアであり、「あちら側」と「こちら側」をつなぐ橋、みたいな存在なんだと思う。

SNSやブログで誰もが発信できる今日、語りが弔いの意味合いをもっているとは考えられにくい。語りはたぶんに自己アピールのための強力な手段として捉えられているし、もちろんその側面を否定することなんてできない(つらつらネットで書いている私だって例外でないし)。そもそも古代ギリシャのころから弁論術などはあったわけで。

でも。弔いとしての語りがあるとすれば、というか語りはそうやって始まったんじゃないかな、と思うから、なんというか、一応「語り」をやっている人(つまり今だとと文章書く人)として、そういった語りの一側面を、せめて頭の片隅に置いておきたいなと思ったのだ。

今に存在しない人の生き様や教えを今に伝えること。それができるのが、語りなのだから。(うーんまだ上手くまとまらない。)

それでは、また。


SAKI.S
OTHER SNAPS