結婚して、背中を預けられるようになった

結婚しなくても生きていけると言われるこの時代に、なぜ結婚したのかと聞かれたとしても、もごもごと口を動かしてしまうだけかもしれない。
先月籍を入れ、今月式もすませ、ひと段落ついたあたりなので、結婚したんだ〜〜みたいな実感はなくなってきた。あ、そういえば名前も変わって結婚してたんだ、とたまに思い出すくらいだ。
それでも、一緒に住み始めて4ヶ月くらい経とうとしているので、夫婦で暮らすことに慣れてきた。
結婚して一番大変なのは、自分の見たくない部分と向き合ってしまう(わがままとか感情的とか怒ってしまうとか)ことなんだけれど、もちろん結婚してよかったなと思うこともある。
それは、自分の背中を預けられることができるようになったことだ。
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話は少し変わるのだけれど、めったに外食をしない私が夫と二人でごはんを食べに行くときは、テーブル席を案内されても、わざわざカウンターでもいいですか?とカウンター席を選ぶ。
向かい合って食べるより、横並びで食べる方が落ち着くのだ。物理的に近くて触れられる距離にあるから、安心するのかもしれない。
よく、家庭で上手くいっていなくて...という人生相談に、「奥さんや子どもとちゃんと向き合っていますか?」と回答があるけれど、私はどうも家族と「向き合う」というのはしっくり来ない。
こちらはたまに言われることだけれど、「家族/夫婦で同じ方向を見る」という方が腑に落ちる。
日々向き合っていることは、夫婦別々でいい。趣味も仕事も、1日の時間配分もぜんぜん違う。起きる時間寝る時間、家事にあてる時間などでもめることはあるけれど、別々のことに向き合いながら日々を過ごす、というのがしっくりくるのだ。
そして、目の前のことに集中して取り組むときに、「自分の背中を預けられる」相手がいるのは、何かあったときの安心感が違う。具体的に仕事などで助けてもらうことや相談することはないけれど、お互いがお互いの一番の応援者でいたいねと話している。
誰も理解してくれなくても、上手くいってなくても、背中を預けられるから、後ろに転んで頭をぶつけることがないからきっと大丈夫...結婚して、特にそう感じるようになった。
中島みゆきの『糸』という曲に、
「縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない」
という歌詞がある。初めてこれを聞いたとき、「パートナーがいること」に対する見方がぐるっと変わった。
もちろん、自分が、そして相手がお互いがいることで幸せを感じるのは何よりも大事だけれど、そこに終始するんじゃなくて、その先に、お互いがいることで、目の前のことや人に真摯に向き合うことができて、誰かの役にたてればいいなあと思うようになったのだ。
そういえば私が今の人と結婚したいと思ったのも、日常的に一緒にいたいと思っただけじゃなくて、「二人を起点とした関係性を広げていきたい」ことがあったのを思い出す。
キレイゴトかもしれないけれど、せっかく背中を預けられる人がいるのだから、その分目の前のことに、じっくり向き合えるように。
私も相手にとって、背中を預ける相手になれていますように。
結婚ってすごくプライベートなことなのと同時に、社会的トピックになりやすいから、結婚した方がいいだのいやいや結婚したら人生の墓場だの、結婚がゴールだのいやいや結婚は始まりにすぎない離婚率を見てみろだの、やんややんや言われる。
でもシンプルに、一緒に暮らしたいと思った人と一緒にいる。そこから、広がっていく関係性もある。
そうやって、シンプルに立ち返ってみてもいいんじゃないか。
もちろん、誰かと一緒にいるのは何も結婚という形にこだわらなくていいと思っているけれど。
それでは、また。
SAKI.S