LOG IN

ギャッツビーと文芸棚と。

by SAKI.S

昨夜は本を読んでいるあいだに寝落ちしてしまった。7年ぶりくらいに手に取ったグレートギャッツビー。最初に読んだのは、高校の英語の授業だった。当時はアメリカの現地校に通っていて、高2の英語の授業でグレートギャッツビーが指定本だったのだ。その年は、他にもホーソーンの緋文字、マーク・トゥウェインのトムソーヤの冒険、キージーのカッコーの巣の上で等を読んだけれど、そのなかでもギャッツビーは特に印象に残っていた小説だった。

細部はあまり覚えていないけれど、ギャッツビーが対岸の緑の光を見つめるシーンが特に印象深くて、私にとってギャッツビーはずっと「対岸のグリーンライト」だった。

ギャッツビーが当時も好きだった、村上春樹の指針となった本だったということを知ったのはそれからだ。村上春樹の翻訳本にここ1年くらい手を伸ばしているけれど、ギャッツビーは読んだことあるからという理由で後回し後回しにしてきた。

でも最近、「手に入らなかったものほど美しい」という、甘美で切ない感情をふとしたことから思い出し、その流れでギャッツビーをも思い出したので、手にとってみることにした。(滅多にないけれど)原文を読んでからだと翻訳本は違和感あるのかなあと思いながら読んでいるけど、全然感じない。まあ、村上春樹訳に慣れちゃったからかもしれないけれど。

本に出てくるギャッツビーの想い人・デイジーは、登場したときから美しかった。私もいま書き途中の小説で、思わず惹きつけられる女の人を描きたいんだけれど、それがなかなかうまくいかない。並行して読んでいるチャンドラーのロンググッドバイに出てくる、ウェイド夫人もそうとう魅力的で、読んでいてどんなに美しいんだろう...と想像しながら読んでいる。

女の人をはっとする魅力あふれる人物として描くのは、かなり力量がいるんじゃないかと思うし、小説の大きなアクセントになっているのは間違いない。私は今のところギャッツビーより、デイジーの魅力にくらくらしながら読み進めているのだから。

ところでこう書くと、女性を美・性の対象としてしか描いていないというジェンダー論にもつながっていくのかもしれないんだけれど、それをおいといてもなお、ここまで魅力的に女性を描けるのはただただ「すごい」なあとしか言いようがない。少なくとも一読者としては。

ところで、本屋の文芸コーナーに行くとたまに、男性作家と女性作家に分かれていることがある。雑誌が男女別なのはまだわかる(ファッション誌が大半を占めるし)んだけど、小説が男女別に分かれる必要ってあるんだろうか...と?マークが浮かぶ。女性は女性作家を、男性は男性作家を手に取ることが多いのかなあ。

個人的には、女性作家より男性作家にはまってきた時期が多い気がする。違いは一概に言えないけれど、女性(特に日本人の)が描く話は共感できることが多くても、自分と近すぎて、そのべったりした距離感がうっとうしく感じることがあるのだ。だからかな、自分とは通そうな、年代も国も性別も違う人が描いた小説にはまったりする。

とはいえ、男女別に分けるほどそこには違いがあるかといえばそうでもないと思うので、棚で分けるほどだろうか。「男は男が、女は女が書いたものを読むでしょ」という暗黙の前提があるようで、文芸棚まで行って悲しい思いをすることがある。

それよりも、「乾いた文体」コーナー、「じめじめとした文体コーナー」とかで分かれてたら選びやすいんだけどなあ(需要ないか...?)

それでは、また。


SAKI.S
OTHER SNAPS